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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-05-10T07:30:01Z</published>
   <updated>2012-05-10T07:31:16Z</updated>
   
   <summary>人生の「旬」は限られている！...</summary>
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   <title>人生の「旬」は限られている！ [下野 稔の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-05-10T07:12:31Z</published>
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   <summary>何度か繰り返し書いていることの一つに、「人には「心、技、体」の３拍子が揃った時期があるが、それは長い...</summary>
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      何度か繰り返し書いていることの一つに、「人には「心、技、体」の３拍子が揃った時期があるが、それは長い人生の中でごく限られた期間である」、という事がある。３つの中の一つが整ったと思ったら、その中の一つを失っていた・・・という事があまりに多いのだが、自分も含め人はなかなかそれを承認しようとしない。多分、旬の期間に多少の誤差はあれたぶん例外は無い。「過ぎ去ってみないと、判らないことが多い」のは皮肉である。

エクゼクティブ・サーチという職業柄、その人の「旬」の時期を考える。これはまさに「心、技、体」と同義である。一般的なビジネス人生の中では、３０台後半から５０歳ぐらいまでの１０年～１５年というところが妥当であろうか・・・。このビジネスに身を置いて１３年目となるが、この程度の期間人の盛衰をつぶさに拝見してゆくと、先程の期間がしっくり来る様に思える。人生８５歳と考えても、たった１５％ぐらいの期間でしかない。ビジネス人生だけを考えても、約４０年として３０％に過ぎない。ということは、ビジネス人生を三分割し、最初の三分の一は来たる旬の時期への「準備期間」、中の三分の一が「旬」の時期、最後の三分の一は「整理・統合期間」と見ることが出来るのではないだろうか？いわゆるビジネス人生、三分割説である。(笑)

      私は、何故その様な構造になっているのか？という事を考えることがある。勿論、「旬」な時期に人は最大限のチャレンジをすべきなのだろう。何故なら、やはり成功の確率が高まるからだ。または苦難に出会ったとしても、それを乗り越え次の成功に結びつける気力や体力、知恵などが備わっている可能性が高い。私が興味があるのは、その事ではなく、何故３段階に分かれているのだろうか？という点である。特に第三ステージの「整理・統合期間」である。私見だが、大きな意味では、今まで研鑽してきたノウハウや経験、知恵などを、「世に返す」という意味があり、現実的には、物事を多面的に見ることが出来る様になり、「会社」や「人間」という複雑な生き物の全体像がつかみ易くなってくる事と深く関連している様に思う。個人的な体験だが、５０歳前後から急にいろいろな事柄が繋がってゆく様な不思議な体験をしている。身に覚えのある方も多いだろう。そういう意味で、会社経営や教育関連の仕事が第三ステージには適している。しかしながら、それは第二ステージの「旬」な時期にそれ相応の苦労や成功や挫折を臨場感を持って体験した後に、という条件がつく。

最近の大手家電メーカーや国産のコンピューターベンダーなどの、大規模なリストラの記事の影響があるのだろうか？弊社へキャリアコンサルティングを依頼する候補者の方々の問い合わせが増加している。特に大手国産企業の候補者に当てはまるのだが、４０台後半～６０歳ぐらいで転職経験が無い方が多い。残念ながら、「旬」の時期をほぼ終え、「整理・統合」に入る段階なのだ。確かに、日本の場合、特に大企業では４０台前半ではなかなか会社経営などに携われるケースは少なく、まだ課長職から次長職でラインのマネージャーであるケースが多い。まだ、会社での出世競争にも可能性がある年代だが、よくよく考えてみると、社長になるのは一人、専務や常務クラスで数人程度なので、経営陣になるのは可能性はかなり薄い訳だが、「いや自分だけは例外だ・・・」と頑張ってしまう。大方の道筋が決まってくるのが４０台後半ぐらいで、さて転職活動という事なのだろうか？

一方で、そこそこの大企業では、５０歳になると部下を持つラインは任せられず、専門職になるケースも多い、と言う事を大半の人々は見聞きしている筈だ。ここに矛盾がある、と私は感じている。どこに転職するにせよ、会社が期待するのは一般的には「旬」な人材である。例外は既に経営陣にいる場合、またはかなり専門性の高いプロフェッショナルの場合、これらの２つのケースのみだろう。皆、うすうす気付いているのだ。しかるに、自分の「旬」な時期にしかるべきチャレンジをされないケースが多いのが気に掛るのである。一つの目安として、少なくともその「旬」の時期に「余裕で仕事がこなせているかどうか？」は一つの基準である。だとすればチャレンジしていない訳だ。または、「ルーティンワーク化した仕事に奔走し、実は新しいチャレンジが無い」という事も当てはまる。それらが判り易い「危険信号」であると思う。

人生の「旬」の時期に後悔を残さない様・・・

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   <title>「竹内美奈子の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-05-08T08:15:10Z</published>
   <updated>2012-05-08T08:17:58Z</updated>
   
   <summary>「超域」のすすめ、「クラウドソーシング」のすすめ...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.stantonchase.co.jp/03exblog/takeuchi/">「超域」のすすめ、「クラウドソーシング」のすすめ</a>]]>
      
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   <title>「超域」のすすめ、「クラウドソーシング」のすすめ [竹内 美奈子の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-05-08T01:47:44Z</published>
   <updated>2012-05-08T05:10:04Z</updated>
   
   <summary>　　　前回のブログでも紹介したが、この1～3月にかけて、大阪大学大学院で今年度新設された「超域イノベ...</summary>
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      <![CDATA[　　　前回のブログでも紹介したが、この1～3月にかけて、大阪大学大学院で今年度新設された<strong><a href="http://www.cbi.osaka-u.ac.jp/top.html">「超域イノベーション博士課程」</a></strong>に関わるコンサルティングをさせて頂いた。　詳細は今は触れないが、平易に言うと、「様々な領域の専門性と知恵を持ち寄り、それらの領域を超えたプロジェクトを推進し、ソリューションを産み出す」リーダの育成を目指す、教育・研究課程である。

　　　本課程に限らず、このコンセプトは、多くの場で見聞きし、必要性を語られてきたように思う。ただ、これを体系的にかつ、継続的に5年間をかけた人材育成として取り組む阪大は、ともすれば「人材のたこつぼ化」が問題視されている日本の高等教育機関として、大きなチャレンジをされることになる。
　　　5年後に果たしてどんな「社会に役立つ」人材が輩出されるのか、また、それだけでなく、彼らを受け入れられる社会（企業、行政、アカデミア）に、（受け入れ側も）なっているのか、実は、双方が試されているのだと、私は思っている。
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      <![CDATA[　　　<strong>「超域」</strong>に話を戻すと、超域の「域」とは何か？　我々が「超える」べきものは何だろうか？　それは、無論、学問や研究の領域であり、アカデミアと産業と行政の壁であり、地域の壁や国境であり、性別や人種や世代であり、言葉の壁であり、文化や社会背景の違いであり、（阪大の定義では）従来のものの考え方や既成概念である。
　　　そして、もっというなら、商品商材のカテゴリーであったり、既得権益を持つ人々の抵抗や保身といった、様々な、時に強固なバリアであると、私は認識している。


　　　このブログにも何度か登場いただいたが、私が尊敬する、立命館アジアパシフィック大学元総長の、モンテ・カセム氏が常々おっしゃっている<strong>、「垣根を越えて、世界で役に立つことを考える」</strong>という精神も、根底は同じものだ。
　　　その垣根とは、やはり、国境であり、学際であり、地域である。

　　　無論、精神論だけでは、人材は育たない。とはいえ、よく考えてみると、もしかしたら、今の日本人には、基本的なこの精神の醸成も必要なのかもしれない。
　　　手近なところでは、自分の能力の限界、仕事の限界を決めてしまうこと、自分達の力だけでなし得ないとそれが問題解決の限界と思いこんでしまうことも、もしかしたら、私たちが陥りがちな悪癖であり、そのようなメンタルブロックを解くことからのスタートなのかもしれない。　自分達の力だけではなし得ないことを知り、それならば、（開き直ってではないが）、垣根の向こうにいる人の専門性の力を借りる、そういう発想も必要だ。（この発想で最近注目しているのは、徳島県や佐賀県武雄市の樋渡市長の取り組みであるが、それについては別の機会に取り上げてみたい。）

　　　一方で、思い起こしてみると、いわゆる「隙間やグレーゾーンのある仕事」を、チームワークで（重なり合って、互いにカバーして）成し遂げるという、日本人の得意技もあるはずなのだ。　だから、今だからこそ、日本から、地方から、そういううねりを起こしていきたいと思う。

　　　だが、当然ながら、精神だけでは、プロジェクトをリードすることもできないし、ソリューションを提供することもできない。ゆえに、阪大では、その排出すべき「人材像」を描き、もつべき「スキルセットや素養」を体系的に定義し、その人材育成に向けたカリキュラムを産み出し、既にこの4月から「チャレンジ」のスタートを切っている。　今後が、楽しみである。


　　　一方で、世は、インタネットの時代、ネットワークの時代である。完成品を大量生産し、輸送（輸出）し、在庫を抱えるという時代から、ネットワーク上でサービスを提供したり、それが口コミで広がっていったり、ネットにつながる一般ユーザがいつの間にか商品開発に関与していたり。。。　私たちが使っているサービスも、ある日、コンピュータを起動するともう画面が変わっていたり。　とにかく、既成概念は、どんどん打ち破られていく。
　　　それが世界のどこで起きているかも、見えないし、見えなくても、何の支障もなく、いつの間にか私たちは利用者になり、購買者になり、ファンになっているのだ。

　　　ネット上につながった世界の人々が、知らず知らずの間に、サービスや商品の開発というバーチャルプロジェクトに関与し、参画するリソースになっていたりするわけである。　改めて、もう、そういう世の中だと、認識を新たにする。
　
　　　<strong>全てのプロジェクトが「超域」である</strong>と、そう捉えたほうが、ソリューションも意外と身近に引き寄せることができるのではないか。


　　　「超域イノベーション」を開発する仕事をさせていただいて、もう一つ学んだことがある。　それは、このプロジェクト自体が「超域」であり、それに関わった「人」たちも、先生方は理系文系、専門問わず、役職問わず、また、アカデミアだけでなく我々のような産業界からもメンバを集めるという取組みであった。その中で一人一人が、高度な専門性をもち、必要な時に必要な人が、必要な知恵をもちよって、このプロジェクトが進んだという点である。

　　　私が関与したフェーズは、たった3か月ほどの、短く、凝縮したそれはそれは濃いプロジェクトであったが、その時々に、「研究」や「学問」の専門家、「ブランディング」や「マーケティング」の専門家、もちろん「教育」の専門家、「統計解析」の専門家、そして、私に求められたのは<strong>「人材」であり「人材評価／育成」のスペシャリティ</strong>である。さらに、それだけでなく、その一人一人のプロフェッショナルが備えていたものは、ファシリテート力であり、プロジェクトマネジメント力であり、説明能力であり、目的に向かって「事を荒立てる」力であり、関わる人々を巻き込んでいきファンを増やしていく（これがこの壮大なプロジェクトを成功裏に納める大きな山場となった）、（ある人が言った）、人格スキルともいうべき、<strong>汎用力</strong>であったとも思う。

　　　まさに、「超域ハイパフォーマー」が、必要な時に集まり、それぞれの役割を、二役も三役もこなしながら、コンセプトから戦略、プラン、実行、アウトプットへと推し進めていったのだ。

　　　名付けるならば、<strong>「クラウド（リ）ソーシング」</strong>とでも言おうか、必要な時に必要な（人的）リソースが集まって、それらの専門性を持ち寄り、仕事をする。私たち一人一人の人的リソースは、巨額な投資で抱えられたリソースではなく、（固定費ではなく変動費である）、必要な時だけ呼ばれて、要求レベルの高い、ほどよい緊張感の中で、求められる力を発揮し、その誰もがプロジェクトの大きな推進力となる。　プロジェクトの実行フェーズが変わっていくと、そのリソースも新陳代謝していく。。。　そういう仕事の仕方を学ばせてもらった気がするのだ。
　　　これから、ますます、いろいろな仕事の場やプロジェクトが、「超域」になるならば、そのリーダや構成メンバは、こういった<strong>「クラウドソーシング」型の、チームビルディング</strong>になるのではないかと、いう気がするのだ。

　　　では、そのとき、自分が有効な「リソース」となれる要件は何か？　そんなことを考えてみると、　まさに、阪大のプロジェクトで定義をした<strong>、「専門力」と「汎用力」</strong>を併せ持つ、人材ではないだろうか。
　　　そう考えると、今多くの日本企業でカテゴライズされてしまっている人材タイプ、「エキスパート」と「ジェネラリスト」というカテゴリも、早晩もう意味がなくなるのではないかという予感がしてくるのだ。


　　　転じて、ふだんの私たちの仕事＝エグゼクティブサーチにおいても、時に「人を探してきて、マッチングして、引き合わせるのが仕事」と誤解されがちなのだが、「人と人を引き合わせる」「人材をあるポジションにプレースメントする」ことは、私たちの仕事のほんの「氷山の一角」なのである。　自分が、「人材」における深い洞察やその周りを埋める幅広い知見と（テンプレートなどを含む）表現力という、<strong>深いスペシャリティ（専門性）と、誰にも追随できない価値を提供できなければ、そしてそれを、様々な状況にあるクライアントに対して汎用化する力</strong>がなければ、もはや意味がないのだと、改めて思う。

　　　だからこそ、私自身が、「人材」という専門性で、ちゃんと、クラウド型（サーバ）の（リ）ソースにノミネートされ続けなければならないと、そして必要な時に、アクセス（お呼び）がかかり、その価値を提供できる（リ）ソースでなければならないと、そのための専門力と汎用力の両方を、磨き続けていかねばならないと、改めて感じた「超域」な仕事であった。


　　　改めて、このような貴重な機会を頂いた、大阪大学大学院の関係者の皆さま、この仕事のきっかけを頂いたＯさん、Ｈ先生ほか、一緒に仕事をさせて頂いた、「雲」のように漂っている、「超域ハイパフォーマー」の皆さまに、心から感謝申し上げたい。
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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-05-01T03:03:03Z</published>
   <updated>2012-05-08T09:11:43Z</updated>
   
   <summary>一旦、離れてみる・・・...</summary>
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   <title>一旦、離れてみる・・・ [下野 稔の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-05-01T00:56:13Z</published>
   <updated>2012-05-14T06:38:17Z</updated>
   
   <summary>物事に打ちこんでみて、少し離れてみることで、新たに見えて来ることがある。 ある事情で３年間止めていた...</summary>
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         <category term="人を育てる" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      物事に打ちこんでみて、少し離れてみることで、新たに見えて来ることがある。

ある事情で３年間止めていたゴルフを、昨年末をもって再開した。当時習っていたレッスンプロに、「最近の下野さんの言う事は道理に叶っているし、少しゴルフが判って来たのかな？」と言われた。それまで四半世紀余りも続けてきた好きなものをぷっつりと止め、３年間はゴルフクラブを一度も握らなかった。さて、再開してみてゴルフというものの「本質的」なものが見えて来た様な気がするのである。皮肉なことだなと思う。

再開してみると、まず、気分がリフレッシュする。コースに行く浮き浮きした感じが蘇った。ゴルフウェアも様変わりしているので、昔のスタイルのウェアを今風に一新した。これ意外に重要な要素だ。(笑)外見からの内面へのモチベーションの連携である。３年間で自分も５５歳の大台を超え当然ながら老けた訳だが、自分にとってはそれが良かったのかもしれない。「まだまだ若い者には負けない・・・」という拘りがなくなって来た。当たり前のことだが、やはりパワーでは負けるのである。それを自然と認められる様になった。現在の持てる力量の範囲でベストを尽くせばされで良し、とする事が無理なく出来る様になって来たのではないか、という気がする。
      
他のスポーツとの大きな違いは、１ラウンドの中で考える時間が圧倒的に長いスポーツという点である。１８ホール回って、実際にボールを打つ時間を累計すると、全体の時間の２％にも満たないのである。９８％は考えている計算になる。これがメンタル・スポーツと言われる所以だ。自分のミスがすべて自分に跳ね返ってくる典型的なスポーツなので、あまり事実を注視し過ぎると本当に疲れてしまうのだ。不様な自分を「片目をつぶって、やり過ごして」ゆかないと、自分が嫌になって自滅する。何か仕事にも通じるのではなか・・・。

頭では判ったつもりになっていても、体で実行する事がなかなか難しい事は山ほどある。間を置いて、力みを無くしてやると、意外にもスムースに進む事があり、それは「何かを失ってみる」（例えば若さと体力）という事の見返りとして獲得するという複雑な要素がある様だ。

もう一つ、再開すると同時にある初心者のメンターをする役廻りとなった。基本を教えるのだが、最初が肝心と思い自分の習ったプロに指南を仰いだ。結果、その初心者のプロのレッスンに何回か立ち会ったのである。初心者に教えるレッスンを聞いていると、なんと不思議な事に自分のスウィングが良くなってきた。ゴルフに対する姿勢や考え方にも好影響があった。スウィング論よりももう少し大切な事が実は幾つもあることが、初心者レッスンを傍観することで身に沁みて判って来た。「ああ、昔の自分もまさにこうであったではないか・・・」という事が自分自身を鏡に写している様な効果で迫ってくるのである。

さて、いつもゴルフのエピソードで恐縮だが、「一旦、離れてみる」ことと、「初心者を教えている所を見る」ことの重要性を言いたいのである。

「一旦、離れてみる」という事は、一旦止めてみる、というのが今回の主旨だが、仕事を３年間ほど止めてみる事が許される方は極少数だろうから、現在置かれている自分の環境を変えてみる、という風に解釈してみる。社内外での転籍、転職など、取り巻く環境が変わってみて、「自分のコア」というものが認識できるという事がある。すなわち、今までの成功や失敗が、自分自身の能力に起因するものと、そうでないもの・・・（上司、部下、同僚、会社のブランド、その他環境要因などが考えられる、）に分けて比較的冷静に事態を観測できるのである。離れてみないと如何に自分が廻りに助けられてきたかが認識できない、というパターンが多いのだが・・・環境が変わってもやはり通用するものが、「自分のコア」なのである。渦中にいるとなかなか冷静に自分を見ることが出来ない。過大評価をしたり、過小評価をしたり、Ｎｅｕｔｒａｌに自分の立ち位置を確認するという作業は意外に難しいものだ。間を置くことで、自分にとっての課題が熟成され、新しい環境になることで、誰に臆することなく、思い切って行動してみることが、好結果に繋がるのかもしれない。

もう一つ、「初心者を教えている所を見てわが身を振り返る」という点だが、ベテランが初心に帰って基礎からコーチについてみる事はよく見聞きする。しかし、初心者の教えられている光景を一からつぶさに見ることが、これほど啓発的だ、という点には今まで考えが及ばなかった。初心者が陥り易い様々な問題点があるとする。名コーチは、それらの根本原因となっていることを指摘することで、幾つかの問題点を同時にクリアしてゆく。また、それを反復練習するミニドリルを授け、出来るまで次のステップには進ませないのである。初心者が判り易い順序で一つ一つ段階を経てクリアさせる事が出来るのである。物には順序があるという訳である。素人のコーチにはこれはかなり難しい。一度に何でもやらせようとさせてしまい、ある技術が固まって初めて次のステップにゆける・・・という因果関係がはっきりと認識出来ない為に、初心者を混乱させてしまう事が多いのだ。

実はほとんどのアベレージ・ゴルファーは、間違った基本部分をスウィングで修正しようとする。その間違った癖を練習場で厭きもせず、体に沁み込ませてしまう傾向が強い。これは仕事上で新人を育てる際も、誰かを新しい事にチャレンジさせる際にも、耳の痛い話である。プロの指摘する点は、基礎的な部分に集中している。アドレス、グリップ、スタンス、ボールの位置などである。要は、動かない部分なのだ。スウィングは３秒以内で終わってしまうので、その速さの中で幾つかの修正点を持っても、実際には対応出来ない。仕事でいうと、朝の出勤、身の廻りの整理、言葉づかい、机上での姿勢などだろうか？もう少し進めると、事前の準備、仕事の段取り、顧客への迅速な対応、仕事の報告と情報のシェア（コミュニケーション）などが該当する。

特に感心するのが、ミニ・ドリルである。仕事上でも効果的なミニ・ドリルを反復練習させる必要があるのではないか？型をつくるのである。それらは、先に書いた小脳から潜在意識に強固な仕組みとして記憶され、いざとなった時に思わぬ応用力を持って蘇るのである。ここでのポイントは、新人が育って行く様を中堅社員に「見せる習慣なり仕組みを作る」ことの重要性だ。「人の振りみてわが身を諭す」とはよく言ったものだ。

こんな基礎的なこと、何程のこともない・・・と思い込んでいる所にこそ、応用力の基礎が埋め込まれている。各人の能力の差も、煎じ詰めれば基礎力の差になるのかも知れない。

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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-04-23T10:08:17Z</published>
   <updated>2012-04-23T10:09:25Z</updated>
   
   <summary>「ひとかどの個性」は如何にして育まれるか？...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.stantonchase.co.jp/03exblog/shimono/log/2012/04/post_61.html">「ひとかどの個性」は如何にして育まれるか？</a>]]>
      
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   <title>「ひとかどの個性」は如何にして育まれるか？ [下野 稔の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-04-23T08:28:48Z</published>
   <updated>2012-05-14T06:40:13Z</updated>
   
   <summary>「ひとかどの個性」といったら良いのだろうか？その人ならではの強烈な存在感の様なもの・・・、これについ...</summary>
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         <category term="知恵を育む" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      「ひとかどの個性」といったら良いのだろうか？その人ならではの強烈な存在感の様なもの・・・、これについて書いてみたい。世間で「ひとかどの人物」と言われている方々からは、個性全面が立ち上がって来る感を受ける。黙っていてもだ。昔、写真家の立木氏が、古今東西の俳優、政治家、財界、学者、スポーツ選手などを、白黒写真のポートレートにして発表したことがある。それぞれに個性の立ちあがった良い写真で、流石に鋭い切り取り方をするものだな、と感心した事を覚えている。最近では、ＮＨＫの「プロフェッショナル仕事の流儀」に登場した、歌舞伎の板東玉三郎氏が出色だった。静かで美しい強烈な存在感。毎日３６５日厭きもせず型の反復練習をして舞台に上がっているのである。何か使命感にとり憑かれている様な迫力があった。我々がお会いする経営者や候補者の中にも、明らかな存在感を示している方がいる。お会いして３分間の中で、人物全体から湧き上がるその存在感は部屋中一杯に広がって行く。これは世界どこの国へ行っても通用する静かな強烈な個性である。如何にして、それが形成され醸成されてゆくのか？私は、このことに興味がある。


      「個性」や「個人的資質」、「好み」「嗜好」などが、一体どの様に形成されるのか？これは不思議というより他はない。我々は職業柄、人に会うことの飽くなき繰り返しである。その中で、「個性」というものの不思議さによく突き当たる。哲学的には「自分とは何か？」は永遠のテーマであるが、その領域には踏み込まぬ事として、最近読み返してみた本の中で重要なヒントがあった。

その本は、外山滋比古著の「ちょっとした勉強のコツ」だ。氏は複雑なことを簡潔に分かり易く述べる達人で、いつも感心する。常に本質的にはどうか、という事を考え続けているに違いない。「個性」、もう少し広げて「心を育む」という事は、どうも「小脳」の果たす役割と重要な関係があるそうである。「大脳」と「小脳」の役割分担は以前から気になってはいたが、従来の認識を一挙に覆された。

大脳神経系一辺倒で発達してきた脳の概念は、近年、あらたな小脳の働きの発見により活性化したといわれている。大脳は「形式知（言語知）」を小脳は「暗黙知」を担当する。「形式知（言語知）」は座学のジャンルの知識である。「暗黙知」とは、繰り返しにより体で覚える知であり、運動機能のみならず、技術者のノウハウの様な「匠の技」を司るソフトウェア機能も含む。経営者が環境の変化に対応して発揮する経営ノウハウなど、なかなか文字（言語知）には出来にくいが、経験と勘の世界のノウハウを含む「暗黙知」の一部なのである。繰り返しにより「意識せずとも再現できる知」という意味では、広大な「潜在意識」やその人の「特性」にも深く関連している、という。人の行動原理は潜在意識の強烈な影響を受けている。「小脳」の特徴は、頭と体の双方を動かしながら反復訓練によって体得して行くという特徴があり、無意識に出来る様になると、その一連の情報は小脳内に安定した形態で保存される。と同時に、潜在意識に「メタ化した情報」として沈殿してゆく。それが潜在意識に蓄積され、その人の特質や個性に発展する。これが「心や人間性の完成を育む」という点に直結しているらしい。

従って、知識偏重主義や頭でっかちは、「こころ」に問題を持つケースが多いという。確かに座学ばかりの知識偏重の輩には、無機質な無味乾燥な人間が多く、個性的な魅力ある人が少ないのは頷ける。精神病などのリハビリ過程でも小脳の活用は大変重要になりつつある。また、頭と体の双方を動かしながらバランスよく体得してゆく技能やそれに連なる「心の育み」は、大変強固で安定した知であり、意識せずとも再現性が高く、結果として「個性の形成」に深く関連しているらしい。それがある触媒で卓抜なものに成長したものが「ひとかどの個性」という繋がるのではないか？あるいは、潜在意識というものを上手く活用するか否かに、「ひとかどの個性」を育む大きなヒントが潜んでいるのかも知れない。

面白くなって来た・・・。（笑）

これは仮説だが、「ひとかどの個性」とは、先天的な資質と特に反復訓練によって育まれ意識せずとも再現性のある後天的な資質　：スキルセットの体系（暗黙知）を、潜在意識の力をフルに活用し、先天的資質との融合により巨大化した性向や特質、と定義することも可能である。なるほど職人や一流スポーツ選手、芸術家、一流経営者などに強烈な存在感がある訳である。意識せずともほとばしる気迫や存在感は、激しい環境変化に対応しサバイバルする為に、厭がおうにも身についてしまったものであり、しゃべり口や身のこなしなどの外見的な部分にも独特の特徴を持っている。

潜在意識は顕在意識の二乗以上の影響力があるらしいが、大変興味深いのが、顕在意識のある経験・ノウハウが潜在意識の大きな海原に沈殿してゆくのに重要な働きをするのが、「忘却」の機能だそうである。ボーっとする力というのだろうか？（笑）忘却は頭の中の情報の整理機能であるが、忘却が効率的に出来るかどうかは、実は「睡眠」の質に大きく依存しているそうである。特筆すべきは、人間ならではの忘却という機能を通して、実は「こころを育む」という大きな役割を潜在意識が果たすらしい、ということだ。

なるほど、情報の「摂取」と「排泄」が良い睡眠により循環している状態により、脳内は活性化するとすれば、この良い状態で「こころが育まれる」のは何となく納得できる。睡眠が上手く取れないと「こころ」に異常をきたす訳である。一旦、上手く整理されてしまうと、忘却され潜在意識に沈殿した大きなデータベースから、人は必要に応じて「知恵」を引き出すことが出来る、というのだ。存在感のある方は、「どこでも眠れる」という資質の保持者が多いのは、前から気付いてはいたのだが、やはり脳科学的にも序序に解明されて来ている。

経営者もそれぞれの会社の危機を乗り越えるのに、「デジャブ」の感覚　：これは前にも体験したことがあるぞ、という感覚の中で、意思決定を連続的に行ってゆく、という事を幾人かの経営者からお聞きした事がある。立ち止まってうんうん考えているのでは遅いと言う。これは反復訓練の賜物である。小脳をフル活用し、過酷な体験を連続して経験し、身に備わった知恵を持っていらっしゃる。皆さん、それぞれ独特の強烈な存在感があるのだ。少なくとも、最近の政治家や大学教授などには、残念ながらめっきりそういう存在感のある人物がいなくなった事は確かである。政治、経済、ジャーナリズム、外交、文化、教育など、日本の利益を代表する人々に、「ひとかどの個性」がもし存在しないとすれば、確実に日本の存在感は薄れてゆくだろう。

「ひとかどの個性」に育つ人間とそうでない凡庸な人間とでは、実は生地の能力の差異は少なく、その「特質」や「個性」をどう上手く活かすか・・・についての差異が大きいのではないか、と考えられる。この仮説が正しければ、我々凡人にとっては朗報である。

「小脳」と「潜在意識」の活用：　この分野での研究や取り組みがいま一つではないだろうか？私の様な素人が考えても何か無限大の力が眠っている様な気がする。もっと意識的に「脳とこころ」を活かすように工夫することが出来れば、我々の人生も大きく変わってゆくに違いない。

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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-04-19T04:47:12Z</published>
   <updated>2012-04-19T04:49:22Z</updated>
   
   <summary>日本人の「いいとこ探し」...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.stantonchase.co.jp/03exblog/shimono/log/2012/04/post_60.html">日本人の「いいとこ探し」</a>]]>
      
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   <title>日本人の「いいとこ探し」 [下野 稔の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-04-19T02:47:15Z</published>
   <updated>2012-05-15T06:10:33Z</updated>
   
   <summary>先週、当社のシカゴで開かれた４４回目のインターナショナル・ミーティングに出席して来た。全世界４５カ国...</summary>
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      先週、当社のシカゴで開かれた４４回目のインターナショナル・ミーティングに出席して来た。全世界４５カ国から１２０名以上のコンサルタントが出席している。オフィス毎に案件の輸出入件数が発表されるのだが、今回のミーティングでは、北米が復活し始めている事、中国、インド、ドイツが世界全体をリードしていること、韓国のグローバリゼーションが急速に進み始めていること、やはり日本に関連する案件の輸出入件数は極端に少ない事が確認された。何故ならば、日本のグローバル企業は日本人以外のグローバル人材を採用する機会がまだまだ少ない事に大きく起因している。これはスタントンチェイス内の出来事であるが、実はこれが世界のビジネスの縮図の一端を示しているのは面白い。このままだと、世界から日本は無視されてゆくだろう。

さて、それはそれとして、最近の私のブログは「日本人悲観論」に傾きがちで、どうもいけない。グローバルに活躍するという点で、私を含め日本人の多くが問題を抱えているのは事実かと思う。しかしその欠点を直すよりも、活かす方法がないものか？人の短所や弱点は必ずや長所や強みに繋がっている筈であるいう意味で、日本人ならではの強みや特徴を活かして、今後の世界の中でどうポジショニングしていったら良いか・・・を考えて行くべきかなと思う。ただ、通常気付くことが困難な長所を他人（例えば外人）から指摘されてはじめて認識できる様に、もしや日本人は自分の長所や幸福に気付いていない点も多いのではないか？日本人の持つ「認識されにくい長所」にスポットが当てられ再認識出来れば、「束となればかなり強力でパワー」になる可能性は高い。
      欧米の培ってきた価値観や文明・文化が、ある一定の役割を果たしたのは厳然たる事実だが、成熟社会に入り調和の取れた社会を目指すにはもう既にOutdatedになっていて、科学万能、大脳万能の価値観から、その次の新しい価値観の醸成に日本人が一役を担う可能性が大きいのではないだろうか？同時に、日本人が普通に行える事や、何気ない文化や行動様式の中に、もっと言えば日本人がある意味コンプレックスを抱いている事柄の中にも、自分では気付かないグローバルに通用する新しい価値が多々あるのかも知れないのだ。むしろ積極的に欧米流から日本流に「ゲームのルール」を変えてしうという発想に立つことが出来れば尚面白い。

欧米流の文化に象徴されるものとは、実証主義、論理性を追求、排他的な宗教観と上下の縦支配（クラス）の階級文化、戦いを好む、個の文化、ポリティカル、科学万能主義というところだろうか？日本人に深く根差すのは、「感性と謙譲の文化」である。一言でいうなら・・・。島国独特の肥沃な土壌、変化に富んだ季節感覚、基本的に温暖な気候環境の中で育んだ生活感覚や民衆文化、美意識、匠の技、和の心。など、地域的特性に根ざしたものが多い。争いは好まず、農耕主体の文化である。曖昧で余白や「間（ま）」を尊ぶ。以心伝心、あまりくどくど説明しなくとも判るのである。余計なものを剥ぎ取ってゆく文化である。あまり深刻に考えないお気楽性がある。お人好しである。それがしぶとさにも繋がっていて、「まっ、仕方が無い。また前を向いて頑張ってみよう」という訳だ。俺が俺がというのは最も恥ずかしい事で、「粋の文化」である。ある方向性を見出すと、一気呵成に動いてしまう国民性がある。良くも悪くも・・・。もう一つ、大きな変化を受け入れそれを新しい価値にして生まれ変わらせる力があるのではないだろうか？抽象概念をこねくり回すのは苦手、むしろ体を動かし反復訓練をしながら、余人の到達出来ない高みにまで上り詰める、匠の文化を持っている。

イノベーションの過去の事例をひも解いてみると、それぞれの価値は単独ではなかなか突出したのものになりにくいが、それが「上手く組み合わされた時」に爆発が起こる傾向がある。または、ある技術やサービスがある「意味ある方向性」を持った時に新しい価値が創造されるようだ。その新しい価値は、出来て来たものやサービスを見ると、「なんだそんなことか、今まで気付かなかったが確かにそれは価値である。」という様な事例が多い。世の中を変えるのは、技術的で革命的なイノベーションよりも、従来価値を再定義をし、人が気付かなかった組み合わせによるイノベーションの方が遥かにインパクトが強いそうである。それは「組み合わせの妙」である。

日本人らしい「組み合わせの妙」とは一体何か？芸術関連分野はある程度想像がつくのだが、問題はビジネス分野においてである。昔、ドイツのある地方にバウハウスという近代のモダニズム運動が起こり、まもなく米国に飛び火し芸術、産業、社会に大きな影響を与えた。機能主義とか合理主義とかという解釈があるが、私の解釈では、「形は機能に従う。」というコンセプトを様々な造形分野に広げたのである。私もこれを具現化したとされる腕時計を一つ持っているのだが、シンプルで視認性に優れかつ美しい。実はこれは動植物などにおいては極めて忠実に再現されているコンセプトであり、これが厳しい自然界でサバイバルする条件であった。しかも、「完璧な美」を同時に成し遂げている。バウハウスの運動は、神の手に人が何とか近づこうとしたのである。ごてごてした表現よりも、余計なものをどんどん省いて「シンプルな美と機能性を追求してゆく文化」は、日本人にとっては親和性が高い。例えば、バウハウスを日本流に再定義してみたらどうだろう？エコや環境への配慮にも自然に繋がるのではないか？

さて、古くて新しい価値と何を組み合わせるのが効果的か？敢えて思いつくまま言わして頂くと、「楽しさ」だろうか？Make Things Fun!である。Tokyo KAWAII（可愛い）など、ニューヨーク、ロンドン、パリなど海外で盛り上がりをみせて現象も、女性にとってシンプルで美しいのは勿論だが、何か「こころ楽しい(FUN!）」のではないかと思う。日本の祭りの文化はそれに近い。要するに、「匠」の追及と「こころ楽しさ」の組み合わせである。芸術分野は勿論、物の造形（製造業全般）、サービスの仕組み、建築や都市としてのアメニティ空間の創造、娯楽・介護分野などなど広く考えられる。

私の想像力ではこんなところで限界である・・・(笑)

「明日の日本を創る」といっても、やはり世界に通用する価値観の遡及ががないと、そのパワーは長続きしないだろう。「エコ、環境、心楽しい」だけでは、なかなか難しい。なんらかの「社会的なイノベーション」に対するリーダーシップが必要かと思う。アップルが世界をリードしているのは、技術的な革新よりも、新しい生き方を提案し続けているからだ。繰り返しになるが、社会的なイノベーションとは、きらめく技術的な変革というよりは、もっともっと日常的に分かり易い価値で、皆、いままで気付かなかったが、提示されてみると「なるほど、これはありですね。いいね！」と実感することが大切なポイントだ。

ただコンセプトを広げるという意味でもう一つ大切なポイントは、新しい価値が出来たとしてもそれをどう効果的に世界に発信してゆくか、である。これにはかなり工夫が必要だ。何しろFacebookを使えば、瞬時に８億人にメッセージを送ることが可能な世の中である。伝達費用はほとんどかからない。娘が米国の１０数年も会っていない中学時代の友達をFacebookで見つけ即時にコミュニケートしていた。これは凄いことだ。しかしそれだけにすぐに真似されるし、海外攻勢との差別化を図る為には、日本人ならではの「参入障壁」を設けておく必要があるのだろう。それを何に求めるのか・・・

この「いいとこ探し」は、今後も継続的に考えて行かなければならない大切なテーマだと思っている。

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   <title>「竹内美奈子の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-04-11T07:17:41Z</published>
   <updated>2012-04-11T07:19:00Z</updated>
   
   <summary>「対話下手」な日本人　　　～　　「対話」と、日本語のルーツと、演劇と　～...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.stantonchase.co.jp/03exblog/takeuchi/log/2012/04/post_39.html">「対話下手」な日本人　　　～　　「対話」と、日本語のルーツと、演劇と　～</a>]]>
      
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   <title>「対話下手」な日本人　　　～　　「対話」と、日本語のルーツと、演劇と　～ [竹内 美奈子の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-04-11T06:01:46Z</published>
   <updated>2012-04-11T06:33:13Z</updated>
   
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      <![CDATA[　　　先般、大阪大学大学院で、今年度から新しくスタートする、「超域イノベーション博士課程」に関わるコンサルティングをさせて頂いた。　その仕事について詳細は触れられないが、その際に、同大学の教授をされている劇作家の<strong>「平田オリザ」先生</strong>とご一緒するご縁に恵まれ、そのご縁で、オリザ先生の書かれた『演劇入門』という書籍を読んでみた。

　　　最初は、「演劇論」の解説と思い手に取ったが、これが、なかなか奥が深く、すっかり惹きこまれた。　興味深い点がいくつもあったのだが、そのひとつ。<strong>「日本人の対話下手」</strong>について。
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      <![CDATA[　　　ここでいう、『<strong>「対話」（dialogue）とは、他者（他人）と交わす新たな情報交換や交流のこと』</strong>。一方、『<strong>「会話」(conversation)は既に知り合っている者同士の楽しいお喋りのこと（家族、職場、学校でのいわゆる「日常会話」）</strong>』である。

　　　さて、私たちは、その違いをどれだけ認識できているだろうか。

　　　たとえば、現代の中高生。『偏差値で輪切りにされ、等質の生徒が一つの校舎に集められ、さらに教室の中でも、気の合った仲間内でしか<strong>会話</strong>を交わさない。そんな環境では、<strong>対話</strong>（知らない人に自分のことを知ってもらおうという表現(竹内注釈)）の能力など育つはずがない。』『他者と出会う機会が極端に少ない』環境に閉じ込めてしまっているのだから。　しかも、下校後は、より均質にクラス分けのされた塾や、自室に閉じこもってのゲーム三昧が、それを助長しているのではないか・・・と思いがちであり、恐らくそうなのである。


　　　これ＝「対話能力のなさ」は、私の仕事においても、実は大変気になっていたことである。
　　　転職や採用のプロセスの中で、「面接・面談」という、言うまでもなく非常に重要な局面がある。我々は、その場面に同席させて頂くことが多いのだが、その、初対面の相手にものの1時間で自分を知ってもらうというシチュエイションにおいて、それを（下駄をはかせるとか、自分を大きく見せるとかではなく）、自然に、かつ、効果的にできる方は、実に少ないのである。　「初対面の相手に自分（がいかに貢献できるか）を知ってもらわなければならないこと」、「相手が、この場での重要なデシジョンメーカであること」、「非常に短い時間に凝縮して伝えなければならないこと」が、この場の特殊性であり、究極のむずかしさなのであるが、その特徴を少しでも理解すれば、多少なりとも戦略は考えられるはずなのだが。。。
　　　その戦略や準備については、我々の経験値としてある程度整理できているが、それをいわゆるハイパフォーマと言われる候補者の方に手取り足取りするのも、どうかと思ってしまうのだ。　もちろん、それを補完するための推薦状を書いたり、ご本人から相談を受けたりすることも多いので、その場合は、一緒に考えることは厭わないのだが。。。

　　　また、特に、外国人の方と日本人の違いも、少なからず気になっていた。　


　　　オリザ先生の説に戻ると、先生は、これは単に現代の中高生の問題ではなく、日本人、日本語の歴史的特徴として、長い間の<strong>『他者性の不在』</strong>に起因する、「日本人の対話下手」であるという分析をされているのだ。

　　　『漢字の流入から、かな文字の成立までの、日本の文字文化の黎明期を過ぎて、十世紀以降、すなわち（中略）「国風文化」の成立以降、日本は、言語的には、事実上の鎖国に近い状態にあった。（中略）　十九世紀中頃まで、約千年にわたって、日本と日本語は、他国に征服されることなく、少なくとも言語的には他国の決定的な影響を受けずに、独自の発展を遂げてきた。』　たとえばヨーロッパのように他国の侵略を受けたり、他国の文化と影響を受け合った国々とは対照的に、長い間、他者と出会うことの極端に少ない（＝「対話」の必要が極端に少ない社会）であったという、特殊性からきている、という説である。

　　　『特に、安土桃山以降の約三百年は、極端に流動性の低い社会が日本に形成された。　人口の大半が生まれてから死ぬまで自分の藩の外に出ることもなく、他国はもとより、他地域の文化に触れることさえなかった。（中略）<strong>　そこから生まれる言語は、同化を促進する「会話」のためのものが発達し、差異を許容する「対話」が発達してこなかった</strong>』　というのだ。

　　　たとえば、パーティ会場で、名刺交換をし、会社や仕事や野球の話をして話題がなくなってしまう多くの日本人と、外国人の違い。　（もちろん十把一絡げにはいえないのではあるが。）

　　　『戦乱の中で、征服と被征服を繰り返し、他国の文化の影響を受け、また他国の文化に影響を与えるうちに洗練を極めた欧州の文化とは、その成立の仕方が異なる。流動性の高い社会では、自分は何者か、どういう人間でどういうものを愛し、どういうものを嫌っているかを、自分のことを何も知らない人間に一から説明をしなければならない、欧州の言語は、そのような対話を目的として成立してきた言語なのだ』そうである。

　　　私は、言語学は不案内なのでその専門的理解や是非は別として、とても興味深い。日本語を使う我々が、（ただ英語が苦手であるということだけでなく、）日本語を他国語との比較やその歴史的背景を認識した上にたてば、より学ぶべき視野が広がってくる。　典型的な日本人としては、やはり、意識的なトレーニングが必要なのだろう。


　　　「面接・面談」に話をもどそう。まずは、この場を（「会話」ではなく）、「対話」であるということの理解からして頂かないといけないようである。（それさえ勘違いして臨んでおられるケースも無きにしも非ずなのだ。）　そうして、「他者」であり、重要なデシジョンメーカである相手に対し、積極的に「自分を知ってもらおう」という努力、それをうまく伝えるための適切なエピソードや、自分の感性、持ち味を的確に伝えるための言葉の選択、そしてそれを短時間に凝縮し、簡潔明瞭かつ、その人の個性が生き生きと伝わるための表現力の洗練には、やはり事前の準備は欠かせないのではないかと、私は思っている。

　　　繰り返し言うが、それは、下駄をはかせる、自分を大きく見せる（そんなものはすぐに見破られてしまう）ことではなく、直球やどんな変化球が来ても、普段自分が考えていることを、一回限りの場で、できる限りの確率で、きちんと打ち返せるための、最低限の「礼儀」としての準備に過ぎない。

　　　一方で、私自身は、日本語はとても美しい言語だと思っている。その美しい日本語をどれだけ使いこなせているかというと自分も含め、はなはだ疑問である。　日本語がもし、相対的に、「対話」が苦手な言葉であるとしたら、それを使う私たちが「対話」という場面において、美しい日本語を使いこなして、どう自分を伝えていけるか、それは一考また一興（楽しい取組み）であると思う。

　　　転じて、グローバル化待ったなしと言われて久しい日本の社会（産業、文化、スポーツ、政治、アカデミアすべてである）において、グローバル人材育成急務と言われる今、我々一人一人が、内にこもるのではなく、「他者」や「他国」と積極的に交わり、自分や自国のことを伝えていく。。。　そのために、魅力的なコンテンツを持つこと（それは個々が考える力を磨くことに他ならないと私は思う）、表現力を洗練させていくことは、ますます求められていくに違いない。それがあってこそ、グローバル言語としての英語を使った「対話」の場にたてるのではないか。

　　　ちなみに、「演劇」、「戯曲」とは、『対話の苦手な日本人が、それでも他者と出会い、話さざるを得ない「場所」や「背景」を探し、（中略）「対話」を産み出す』ところにひとつの極意があるという。　そういう観点から、オリザ先生は、企業の人材育成や適性判断の場に活用するという取り組みもされている。　先に述べた高校教育の場などに海外ではすでに取り込まれているともおっしゃっていた。
　　
　　　だとすれば、私たちは表現力の洗練のためにも、「演劇」をそのような観点から観てみるのも、よい訓練になるのかもしれない。
　　
　　　私も、早速、トライしてみよう。


出展：『』内は、全て平田オリザ先生著　『演劇入門』　（講談社現代新書）　から、　　　　　　　引用をさせて頂きました。
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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-03-30T09:50:53Z</published>
   <updated>2012-03-30T09:52:18Z</updated>
   
   <summary>「人を育てる」・・・もっと本質的なこと。...</summary>
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      <![CDATA[<a href="http://www.stantonchase.co.jp/03exblog/shimono/log/2012/03/post_59.html">「人を育てる」・・・もっと本質的なこと。</a>]]>
      
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   <title>「人を育てる」・・・もっと本質的なこと。 [下野 稔の代表ブログ]</title>
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   <published>2012-03-30T06:09:37Z</published>
   <updated>2012-05-14T06:41:23Z</updated>
   
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      言葉というものは、名づけてしまうとその地点から一人歩きを始める。例えば、「調教」という言葉がある。「調教」というと相手は動物相手で、人間相手だと「教育」という言葉が使われる。「調教」という言葉のイメージは、何が何でも何かをさせる、あるいは躾る・・・という命令的なニュアンスが付きまとう。しかしながら、人間に対しても、初めてのトライの場合には、仕事にせよ、習い事にせよ、スポーツにせよ、一つの型が出来るまでは「調教」が最初のステップでは適切な表現であり、その後に「教育」が来るという事を言いたい。何故ならば、ある目的を達成する為に長い時間をかけて形成されてきた「合理的な型」があり、それを無視して上達は望めない。まずそれを強制的に身につける段階で、生徒側が口を挟む余地はないのである。それは反復練習によって身につけるしか方法が無い。しかもそれが最も早い上達を保証する。しっかりした土台が無いと何を積み上げても、砂上の楼閣となってしまうのである。こういう事をはっきりと書くのはなかなか勇気がいる事だが、「教育なり人材育成」などという甘美な言葉に騙され、本来的な教育の現場が最近どんどん少なくなっているのではないだろうか。「調教」の言葉の持つ意味は重い・・・。


      犬は馬の調教の話はよく聞く話である。まず最初に行うのは、お互いの「位置関係」の確認である。特に動物には上下関係を徹底的に教える。どちらが主人であるか、をとことん判らせないと、動物は主人と認めないで馬鹿にする様になる。そうすると、躾も調教も出来ない。ある行動が出来る様になったら、褒めてあげるのは重要なポイントだ。飴と鞭である。最近、犬を躾けられず困り果てている飼い主が後を絶たないと言う。これは子供の躾も同様だそうである。最近の学級崩壊などというのは、躾けられない親子から考えると当然の結果なのかもしれない。何事もすべからく、初めての仕事分野の習得は、「調教」から始まるべきなのである。年齢や社会的地位や性別などは関係が無い。先生役と生徒役の関係である。これは人権の尊重などとは全く違う次元の話である。「社会人」としてあるいは「大人」として立派になる為にも、社会に出てからの調教段階こそが重要である。

その際の基本ルールは、まず「命令形」を取ることにある。つまり「強制」である。その行動が身につくまで何回も練習させるのである。出来たら褒めてあげることを忘れてはならない。頭の中にポジティブ・ループが起きるからだ。行動できる様になってから、何故かを考えさせる。ここがポイントである。出来ないうちに、生徒側に四の五の言わせないのである。(笑)何故なら、仕事は頭と体の双方を使って行うもので、まず大脳で理解し、それを行動に移す段階では小脳の働きに移行する事に深く関連している。スポーツなどをつかさどるのは小脳であり、反復練習が必要な事は広く知られているが、ほとんどの仕事も実行段階では手足を動かさなければならない様々な基本動作の連続なのだ。この基本動作の習熟度の高さが次の応用力に繋がる。従って、小脳に依存する基本動作そのものについて、大脳を使って、「ああでもない、こうでもない」と議論しても始まらないのである。前にも書いたことがあるが、野球の大リーガーの名選手の練習メニューも基本の反復練習である。それがスーパープレイを生むのだ。これらは重要な点なので、敢えて本質的なものを抽出して強調しておきたい。

一つは「位置関係」の問題　：
封建的な意味では全くなく、習う側は生徒として先生や指導者の前に出てはいけない。この事に関してはどちらが主人なのか、を明確にする必要があるという点である。その規律が守られず、生徒側の我が儘を許すと、生徒側が全く上達しないという損害を被ることになる。この関係にお互いの躊躇があるのが一番いけない。例えスキルが先生を超えたとしても先生を立てるのである。これが生徒の態度である。これが何故重要かと言うと、もう一つ謙虚に習うという意識を持ち続けないと成長し続ける事は難しいことと深く関係している。これらの事は、今の日本ではいろいろな分野で崩壊寸前である。弱腰の先生に、生意気で怠け者の生徒、それを強力にサポートする保護者という構造になっているのは皮肉だなと思う。

もう一つは、「型を反復訓練」という事　：
「大体頭で判った」というレベルと、「どんな環境でも自然と体と頭が最適に動く」レベルとでは大きく違う。仕事とは、判った事を体が覚え込みどんな環境でも適応出来るように、型を反復訓練することなのである。何か軍隊系の右翼の発言の様であるが、(笑)お許しいただきたい。だが、それが本質である事を良き指導者は熟知している。従って、知識がある事と、知識を使い知恵として行動できる事の隔たりは大きい。それには反復訓練なのだ。

それぞれのスキルや仕事を習得し、その世界である一定のパフォーマンスが挙げられる様になって、「調教」の時代は終わり「教育」が始まる。それは簡潔に言うと、「自分がどれ程のものか？」世間を広く見るという事である。または、ある過酷な体験をしそれを曲がりなりにも乗り越える事である。そこで天狗になりそうな自分を諌める必要がある。一旦謙虚になると、次の成長の準備が整うのである。これが人材育成の本質かと考える。こう考えると、先生役やメンター役の社会的存在意義はとてつもなく大きいことが判る。物事の本質を捉え、生徒各人の個性を見抜いて指導に当たる力量が要求される。優れたメンターは国の宝だ。


さて、「人に教わる」プロセスの次に、その技術の熟成度会いを「人に教える」という事で確認するというプロセスがある。生徒側から先生役への転換である。先生役になってみると、その技術が自分のものになっているかどうか、が発覚する。その本質を理解していないと、人には教えられない。また、教えてみると、どこが判っていないのかが明確になる。自分のそれを行っている姿は自分では見れないのだが、人に教える事で、あたかも自分の仮の姿を見ながら教える事が出来る、貴重な機会なのだ。

もう一つ、重要なプロセスがある。「自分で自分を教育する（育てる）」というプロセスだ。具体的には、「ものを読み」、「ものを書く」ことで人は育ってゆく。読書の重要性については再三書いているが、実はそれだけでは不十分で、「ものを書く」習慣を持つことが、判ったという「知識」を「知恵」に変換して定着させ応用力を育む重要な役割を果たすことが最近判って来ている。実は、私がこういう事に気付いたのはつい最近である。ブログを書き始めてから、あるいは書きながら、「ああ、そんなんだなぁ。」と反芻しながら初めて判って来ることが多いのである。従って、あらゆる仕事に関して、例えばプロジェクト・マネジメントでもピープル・マネジメントでも、るいは経営論でも良い。自分の頭で考え、「ものを書く」ことで上達は加速してゆく。

昔の上司から、人から教わることを「第一教育」、人に教えることを「第二教育」、自分で自分に教えることを「第三教育」と呼ぶと教えられた。最終的に第三教育を継続的に出来るかが、実は「本当の才能」ではないか、と最近考えている。光るような才能を持つものも「自分を育てる持続性」がないと大成しない。考えてみれば、「人を育てる」という事は、実は「自分を育てる」という事と表裏一体の関係だったのである。なかなか意味深いと思う。人は３段階で育つ。教えられる、教える、自分で自分を育てる。それは多分死ぬまで終わらない営みなのだろう。
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   <title>「下野稔の代表ブログを更新しました。」 [ニュースリリース]</title>
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   <published>2012-03-19T01:02:47Z</published>
   <updated>2012-03-19T01:04:29Z</updated>
   
   <summary>世界に通用する人材・・・もっと根本的なこと...</summary>
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